「お先に失礼するわ」
「お疲れ様です」
「時間きたら切り上げてね」
「はい」
課長との会話の後、美紀は一人フロアに残り残業をすることになった。先日のプレゼンが無事成功して、新しいプロジェクトをはじめることになった美紀は、部長から呼び出され、期待しているという言葉をかけてもらっていた。
尊敬する女性課長に助言をもらいながら、企画書を練る作業で連日残業が続いているのだ。
夜も更け、同じ課の人間はみんな帰宅してしまった。遅くまで残業をしている人もおらず、このフロアには美紀以外残っていない。明日は休みなので、今日中にやれることをやってしまいという一心から、自分のデスクにだけ電気をつけて黙々と作業を続けていた。
廊下には警備の人が時折様子を見に来るため、夜に一人で残業していても特に怖さはなかった。帰宅する方面の電車も、終電まで人が多いため問題はない。
最悪、最寄り駅からタクシーを拾えばいいだろうと、考えながら仕事を進めていく。
「うーん、もう少し」
昼間にチェックしてもらった書類の修正は着々と進んでいたが、いくつかのパターンを作っておきたいので、もう少し時間がかかりそうだ。
長時間パソコンに向かっていたので、肩がこってきた。美紀は背伸びをして首をゆっくり回し、デスクを見渡す。コーヒーももうなくなってしまったし、飲み物でも買ってこようかなと思ったときだった。
「先輩、やっぱりいた」
「潤くん!?」
フロアに男性が現れ、その声から潤だとすぐにわかった。彼も遅くまで残業をしていたのだろう。そんなときでも疲れた様子を見せず、笑顔を向けてくれる潤を見ていると、美紀も少し元気がでてきた。
「こっちのフロア電気がついているし、最近先輩帰宅が遅いって聞いていたので、もしかしてと思って見にきました」
「うん、もう少しで終わるから」
「はい、そう思って飲み物と甘いものも差し入れです」
「潤くん!」
昔から潤はさりげない気遣いができる人であった。おしつけがましくもなく、ごく自然にやってのけるのだ。その優しさから学生時代は、とても人気があった。
そんな潤と、今はこうして同じ会社で同じ時間を過ごしている。あの頃よりも格好良くなり、ずっと男らしい表情をするようになった彼の横顔を見ると、いつもドキッとしてしまう。
だが、今は仕事が優先である。彼からパソコンに視線を戻し、作業を再開した。
潤はそんな美紀のデスクにチョコレートとコーヒーを置き、邪魔しないように距離をおいて椅子に腰かけた。美紀がカタカタとキーボードをたたく音だけがオフィスに響く。
「潤くん、まだ時間かかるから……帰ったほうがいいと思う」
「いえ、先輩の仕事姿見ているのって新鮮ですから」
「いつもこんな風だから。同じフロアじゃないからかな?」
「それもありますけど。やっぱり仕事している姿が好きなのかもしれないです」
「仕事している女性が好きなの?」
「それもありますけど。先輩は特に」
「なんだか、恥ずかしくなってきた」
見られていると自覚すると恥ずかしい。早く作業に集中して終わらせた方がよさそうだと感じ、予定していた企画書を着々と作りこんでいく。そうして集中していると、すっかり潤のこと忘れてしまっていたようで、気がつけば夜はふけていた。
「ふー、終わった」
最後の文字を入力し終えると、美紀は腕をあげて背伸びをする。長時間同じ姿勢だったので、体は痛み、目も乾いてきた気がする。そんなとき、チョコレートが目に入った。確か、これは潤がもってきてくれたものだ。
一緒に持ってきてくれたホットコーヒーのカップを持つと、ぬるくなっているのがわかる。随分時間が経ってしまったようだ。
「潤くん、ごめん。今終わったけれど……」
美紀は潤がいるであろう方向へ椅子を向けた。すると、椅子の背もたれに寄りかかって、気持ちよさそうに寝ている潤がいた。
寝息を少したてながら、端正な寝顔で静かに眠りにおちる潤の寝顔を見ていると、学生時代を思い出す。一緒に合宿に行くと、移動中のバスでこうやってよく眠っていたっけ。
美紀は潤にもらったチョコレートをひとかけ口に含んだ。ミルクチョコレートはまろやかで、舌の上でとろける。甘い物を欲している体には、じんわり染みる甘さだ。
一緒にもらったコーヒーも飲むと、チョコレートとは対照的なほろ苦い香りが口の中に広がる。甘さと苦みのギャップが癖になりそうだ。
チョコレートとコーヒーを味わっていると、まるで潤のようだと思えてきた。顔つきは甘く、だが決して甘すぎることはない。年齢相応の男らしさと決断力。知れば知るほど魅力的な男性だ。
「どうしよう、起こさないと風邪ひいちゃうよね」
美紀は時計をみた。そろそろ帰る準備をしなければならない。帰り道は途中まで一緒だが、潤の最終電車も気になるところだ。
会議室での密会のあと、何度か食事へ行った。だがそのままお互いの家に帰るだけで、甘い行為は何もなかった。その度に美紀は期待している自分に気がついていた。
彼に抱かれたのは一回、そのあと触れられたのは一回。今まで付き合った男性は、一度体を重ねるともっと求めてきたが、潤は違う。
一度セックスしたのに、態度は紳士なままで、そんなそぶりも見せない。もしかして自分は女として魅力がないのかもと、不意に不安に襲われてしまう。抱かれすぎたら体だけかとがっかりしてしまうが、体を求められないのもそれはそれで不安になる。
矛盾した心にモヤモヤとした感情を抱く。子どもの頃は好きか嫌いかだけで判断できたが、大人になると性的な欲望が絡んできてしまう。女だって気持ちよくなって、彼を求めたくなるのだ。
「潤くん……」
潤の少し乱れた髪をそっと撫でた。綺麗にそろえられた、清潔感のある髪型だなと改めて思う。ちゃんと美容院に行っているのだろう。
「ん……、あれ先輩」
「起きた?ごめんね、仕事一段落したよ」
「よかった」
「差し入れありがとう。チョコレートおいしかったよ」
にっこりと潤に微笑む美紀。そんな美紀を見つめて、そっと手を伸ばす潤。美紀はその手がどんなことを求めているかをすぐに理解し、潤に顔を近づけた。
久しぶりにする潤とのキス。もしかして、美紀を待っている間にチョコレートを食べていたのかもしれない。潤の口の中から、美紀と同じチョコレートの味がした。
美紀は自ら潤の舌に自分のそれを絡めていった。潤はびくっと体を震わせる。いつもなら潤がキスをリードしてくれるのだが、寝起きで意識がはっきりしていないのか、無防備なようだった。
「先輩……、ここオフィス」
「うん、そうだね」
唇を離すと、潤が照れたように言葉を並べた。もちろん美紀だって恥ずかしい。でもこの時間なら誰もいないだろう。ついている電気は美紀のデスクのみで、オフィスはほとんど真っ暗だ。
「じゃあ、帰りましょうか?」
美紀はパソコンをシャットアウトして、デスクの電気を消そうとする。すると、潤の気配を背後に感じた。
この体勢、会議室でもあったな…と思い出していると、案の定潤が美紀を背後から抱きしめた。
<つづく>
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