「おはようございます」
美紀は課長にあいさつをした。課長は役職をもちながら、同じ会社の男性と結婚し、小さな子どもを2人持つ女性だ。
フレックス制を利用し、出社時間をずらしている。育児休暇などをとりながらもキャリアアップしていて、美紀にとって憧れの存在である。今日も素敵な課長の姿をみて、自分も仕事を頑張る気力がわいていた。
先日、潤と一夜をともにしてから特に日常の変化はなかった。潤から毎日メールがくるものの、敬語であったし恋人のようなやりとりはなかった。
美紀は少し安心した。変に関係が気まずくなってしまうのが、一番嫌だったからだ。せっかく同じ会社になったのだから、いい関係でいたい。
「中野さんどうしました?」
潤のことを考えていると、隣のデスクの後輩に声をかけられた。
「え?」
「いえ、楽しそうですから。最近中野さんお仕事充実しているのかなって」
「うん、楽しくなってきたところかな?」
美紀は後輩に笑って答えた。仕事に対してやる気があるように思われたのならよかったと内心安堵し、書類の確認作業を再開した。
あともう少しで会議が始まる。今回のプロジェクトでは、美紀が提案の一部を任されていた。小さなプロジェクトだが、営業部からも数人を呼んで、会議でプレゼンをすることになっている。美紀は化粧室に行き、メイクや髪の毛がしっかり整っているか確認した。服も乱れているところはない。
最後にもう1度鏡を確認して会議室へ足を踏み入れると、会議に潤がいることに気がついた。営業からは新人が来ることが多いので、確かに予想の範囲内ではあったが、自分のプレゼンを見られるなんて少し恥ずかしかった。
大学生の時も、サークルは同じであったが、大学は違うのでこういった姿を見せたことがなかった。彼の視線を感じながらも、会議は着々と進んでいった。
「中野さんお疲れ様でした」
「東条くん、ありがとう」
同僚と今回の企画について話していたら、潤が傍にやってきた。
「じゃあ、中野さんあとはよろしく」
「はい、会議室片付けておきます」
同僚は仕事に戻っていき、会議室には美紀と潤だけになった。このまま昼休みになってしまうので、片付けをしながら今日のプレゼンの見直しをしようと思っていたのだが…。
「中野さん、……今は先輩でいいのかな?プレゼンよかったです」
「もう、そんなこと言って。まだまだだなって反省していたの」
お世辞なのかわからないが、潤が褒めてくれたことが嬉しかった。会議中ずっと彼の視線を感じていたので、不安だったのだ。
メールだと普段のように敬語で話してくるので、今までと変わらないと思っていたのだが、こうして一緒にいると今までとは潤の視線が違う。
美紀を見つめる視線が熱い。今だって美紀を見つめているが、その視線は唇を撫でているように感じる。美紀はそれだけで、体が熱くなってきてしまう。
「潤くん?」
潤が一瞬黙ってしまったので、沈黙に耐えられなくなった美紀は声をかけた。
「いや、今日も先輩綺麗だなと思って」
「さっきからお世辞ばっかり。そんなこと言っても何も出ないよ」
潤の視線が唇から、首筋、そして胸元へ滑る。視線だけで愛撫されているような、そんな気持ちになってしまう。
「片付けしないと……」
会議室のドアが閉まっていることを、美紀はちらりと視線で確認してしまった。潤も美紀につられてドアを見たのがわかる。美紀は潤に背中を向けて、資料をそろえていた。すると背中に彼の気配を感じ、気がつけば抱きしめられていた。
「だめ、だって……人がきちゃう」
「だってこんな近くにいて、我慢できなくなる」
「誰かにばれたら」
「大丈夫、さっき鍵はしめたから」
「え……」
「みんな昼休みだし、ここには来ないと思う」
美紀が見ていない間に、そんなことをしていたのかと驚いた。鍵が閉まった会議室。二人だけの密室だ。そう実感すると、美紀の体はじんわりと熱を持ち始める。だめだとわかっていても、彼に触れられたいという気持ちから体の奥にしびれを感じるようだ。
「美紀、キスしていい?」
「そんなこと、聞かないで」
耳たぶに感じる吐息と、潤の声がくすぐったい。潤の声は、低くもないが高くもない。でも美紀にとっては心地よいのだ。そんな潤の声が、間近で熱く自分を求めていることに、くらくらと目眩を起こしそうになる。
潤は美紀が拒否をしていないと感じたのか、うなじに唇をあてた。美紀は仕事中髪をアップにして一つに留めているため、首筋があらわになっていた。それを良いことに、潤が首筋を軽く吸い上げる。
「だめ、跡が残ったら困る」
「見られるから?」
潤は意地悪なことを囁くが、美紀は拒否できずにいた。困ったように眉を下げて、後ろにいる潤を軽く睨み付ける。
すると、簡単に唇を奪われてしまった。息を吐く間もなく、テーブルに押しつけられるように抱きしめられる。唇が深く合わさり、粘膜を感じるほどの濃い密着を迫られた。
「だから……、だめだって……」
口づけの合間に、言葉だけ拒絶してみせた。しかし、潤はそんなこと気にも留めていない様子で、すぐ唇をふさがれてしまう。次第に美紀もとろんとした視線を向けて、口づけに応えていく。こんな快楽、拒否できるわけがないのだ。
「触っていい?」
「少し……だけなら」
唇が離れ、潤の顔を見ると、彼の唇には口紅がついていた。美紀がつけているコーラルピンクに、どちらのものかわからない唾液で彼の唇は濡れている。口づけをはっきり意識させる光景に、鼓動が速くなるのを感じる。会社の会議室で、まだ明るいのにこんなキスをしてしまった。
そんな状況であるのに、美紀の中には恥ずかしさよりもよくわからない感情があった。そう、潤に触れてほしいという欲望だ。今までの彼氏にはこんなことを思ったことがなかった。どちらかと言えば真面目な美紀は、神聖な職場でみだらな行為をするなんて、考えたこともない。
「美紀、こっち向いて」
潤がじれたように美紀にささやく。美紀が後ろを振り返って潤を見ると、もう一度濃厚なキスをされ、テーブルに押し倒された。
<つづく>
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