南先輩! おはようございます」
週明け、亜加梨が出社すると槙人はもう荷物を片付けてデスクに座っていた。今日はいつもより一本早い電車に乗ったので、一番乗りだと思っていた亜加梨は、驚きながらタイムカードを押す。七時四十七分。八時前に、清掃のパート以外の社員が社内にいることは滅多にない。
「おはよう、不二野くん」
平常心平常心、と心の中で唱えながら亜加梨はデスクについて仕事の準備を始める。シンプルなデザインが気に入っている愛用の通勤鞄を下ろし、家に持ち帰っていた書類を出す。
机に積まれていたファイルを仕分け、何枚か貼られた連絡事項の付箋を読み、パソコンの電源を入れる。
しかし正直、何も頭に入ってきていなかった。そもそも、あまりに落ち着かず早朝に目覚めてしまった為、早い出社になったのだ。
とりあえずコーヒーを淹れようと立ち上がり、隣の槙人をちらりと見ると、呑気にパソコンでソリティアをしていた。
社用パソコンの私的利用だが、出勤時間前だし、特に注意するほどでもない。亜加梨はふうっとため息を吐いて、給湯室に向かった。
槙人と亜加梨が一緒のベッドで目覚めた週末の朝、二人で話し合い付き合うことに決めた。ただし、社内では隠し通すという条件付きだ。
社内恋愛が禁止されているわけではないが、同じ部署で、ましてや教育係と新入社員となれば、あまり推奨されるべき関係ではない。今はまだ同じ仕事をしているので、馴れ合いで仕事がやりにくくなっても困る。
それから槙人には言わなかったが、槙人は女性社員にモテるので、嫉妬や反感を買いたくないというのも亜加梨の中では理由の一つだった。
私のことを、いつから好きなの? という亜加梨の疑問には「最初は一目惚れです」というド直球な答えが返ってきた。
でも仕事が出来て尊敬してるし、教え方も分かりやすいし、さりげないフォローも上手いし――と指折り数えられ、「もういいから」と途中で止めた。
嬉し恥ずかしとはまさにこのことだ、という状態で、亜加梨は顔から火が出そうだった。止めたのに「最後にもうひとつだけ!」と槙人はにっこり犬歯を見せて言った。
「ベッドの中では可愛くてギャップがやばいです」
「……不二野くんって、ホント恥ずかしい……」
「あれ?! 槙人って呼んでくださいよ!」
そんなやりとりをしながら、結局その日も昼まで交わった。シャワーを浴びてから脱衣所で、もう一度ベッドで。槙人とのセックスは何をしても気持ちが良く、身体中が溶かされるような心地だった。
別れ際には唇がふやけるほどキスをした――と思い出しかけて、亜加梨はぶんぶんと首を振る。
今は、会社の給湯室だ。こんな浮かれた気分は、頭から追い出さなくてはいけない。いつもは普通のブラックコーヒーを淹れるが、今日はエスプレッソを二杯入れて、特濃で頭を働かせよう、と亜加梨はコーヒーサーバーのボタンを押した。
デスクに戻ると、槙人はまだソリティアをしていた。というより、見た限り先ほどの画面から進んでいないようだ。
左上にエースが並んだ状態のまま、ぽちぽちとマウスをクリックしている。しかもよくよく思えば、槙人がソリティアをしている所を見るのは入社後初めてだ。
「不二野くん、ソリティアなんか好きだったっけ」
「へ? あー、いや、そんなにですけど。暇だったんで……」
亜加梨が思わず話しかけると、上擦った声が返ってきた。さては、と亜加梨は感づいてしまう。槙人も亜加梨と同じように落ち着かないのかもしれない。
室内は、未だに二人きりだ。ちゅんちゅんと小鳥が窓の外で鳴いているのと、他の階からの物音が聞こえるが、とても静かだった。
二人の間に流れた何とも言えない空気の中で、槙人は、パチパチと長い睫毛を瞬かせて亜加梨を見つめてきた。
「……先輩」
「…………何?」
「二人っきりなんで、良くないですか?」
「駄目です」
「えー……」
不服そうに唇を尖らせた槙人は、デスクチェアをくるりと回して自分のパソコンに向き直る。
亜加梨はエスプレッソをぐびっと飲んで、ファイルの山を仕分けていった。資料室に戻す予定の顧客管理リストを積み上げ、このファイルが全ての始まりだったな、と思わず考える。
「そういえば、先輩がリストアップしてくれた過去の顧客、何件かアポに繋がりました。ありがとうございます!」
「本当? 良かった、掘り起こした甲斐があったね」
「このリストのおかげですね~!……先輩とのことも、全部」
「……不二野くん」
「何にも言ってないです!」
「おはようございます~! あれ、二人とも早いね?」
槙人が口を滑らせたのとほぼ同時に、奈々がオフィスに入ってきた。特に何も言わずにてきぱきとタイムカードを切っている所を見ると、会話が聞こえてはいなかったらしい。
聞かれていてもギリギリ誤魔化せるラインではあったが、週明けの朝一からこれでは、先が思いやられる。亜加梨は気を引き締めるつもりで、槙人にファイルの山をどんっと渡した。
「不二野くん、これ、資料室に戻してきてくれる?」
「はい! 先輩、上の棚、届かなかったですもんね」
「……そうだね。よろしく」
すっきりしたデスクに向き直り、今日中に仕上げたい書類とボールペンを手にとる。ふと、ファイルの山の中に埋もれていた付箋に気づき、亜加梨はそれを引っ張りだした。
「あ」
いつかの、槙人が寄越したチョコレートに貼ってあった付箋だ。『昨日はすみませんでした』と書かれていた付箋が、裏返っている。
『でも、わざとです』――読めないほど小さく、裏の隅っこに書かれた文字に、たった今気づいた。亜加梨は、はーっと息を吐いて顔を覆う。
平常心とはほど遠く、顔が熱い。さっきから槙人に厳しくしているものの、結局自分も槙人のことばかりが頭を占めている。
気づけばざわざわと、同僚達が出勤してきていた。部長の長い朝礼までは、まだ十五分ある。亜加梨はデスクを立ち「おはようございます」と何人かに挨拶をしながら、資料室へと向かった。
「……不二野くん」
「あれ? 先輩、まだファイルありました?」
資料室では、すでに片付けを終えたらしい槙人が、最近の顧客リストをパラパラと見ていた。もちろん、朝のこんな時間からこの部屋にくる社員はいない。
亜加梨はつかつかとパンプスを鳴らして、槙人にさきほどの付箋を突きつけた。
「……これ」
「ん? あ……懐かしいですね?」
槙人は、頭にクエスチョンマークを浮かべた様子だ。ついさっきまでこの話題を避けていた亜加梨が、自分から話を掘り返したのだから当然だろう。
亜加梨が更に槙人に近寄ると、いつかこの場所で初めて近づいたほどの距離になる。槙人の呼吸が聞こえる。
「これ、今初めて裏面に気づいたんだよね」
「え!? そうだったんですか?」
「……やっぱり、二人きりのときは、許してもいい?」
このメッセージを見て、今すぐキスをしたいと思った亜加梨の完敗だ。
槙人は一瞬目を見開いてから、嬉しそうに細めた。普段からずっと見ている、無邪気な後輩の笑顔。
唇を重ねると、いつかのようにドクドクと心臓が跳ねた。
「ん――っ、ちょ、槙人く、」
調子に乗った槙人が、亜加梨のスーツを乱そうとしたので、慌てて離れる。やっぱり先が思いやられる、とため息を吐きながらも、始まった社内恋愛に甘い期待をしてしまって、亜加梨は笑った。
<おわり>
7話に渡る今回の連載はいかがでしたでしょうか?
明日からは、また新しい小説が配信されます♪
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