「先輩、大丈夫ですか」
「うん、まだ少し気になるけど」
身支度を終えて、美紀は息を整えた。終電も逃してしまい、これからどうしようと美紀は考える。
「先輩、タクシー呼びましたから。自宅まで送ります」
「そんな、悪いよ」
「いえ、付き合わせてしまったお詫びです」
さっきの名残などなく、襟元まできちんと整っている潤の口ぶりは、また敬語に戻ってしまった。こうやって肌を合わせてはいるが、まだ二人の関係はあいまいだ。美紀はよく考えると、潤のことをあまり知らないことに気がついた。
「先輩?」
「う、ううん。わたしって潤くんのことあまり知らないなって思ったの」
「そうですか?普通だと思いますよ」
「でも接点は学校のサークルくらいだったでしょう?」
「じゃあ、帰りながら質問してください。何でも答えますから」
「何でもいいの?」
「聞かれてまずいのはノーコメントにしておきますから」
潤は笑って答えた。その表情から聞かれてまずいことなんてないのかなと美紀は思った。そうしてタクシーを待つ間、潤の家のことを聞いた。
「俺の実家って医者一家なんですよ。両親も医者、兄弟もみんな医者なんです」
「え……」
「もちろん俺も医者になるつもりだったんですけど、叔父さんがちょっと変わった人で」
「どんな人なの?」
「若いときは留学したり、バックパッカーで旅をしたりしていて。医学部には行ったんですけど、結局は違う学科に入りなおして、今は海外で暮らしています。その叔父の話を小さいころに聞いて、自由でいいなと思っていて」
「だから留学したんだね」
「はい。海外旅行はお金を貯めて何度か行っていたんですが、もっとあっちで学ぶことがあるだろうと思って。やっぱり行って正解でした。世界は広いってことがわかりました」
「だから、わたし潤くんはそのまま海外で就職するのかと思った」
「迷いました。でも、やっぱり戻りたくなったんです」
そこまで話したところで、タクシーが来てしまった。手を握っていたが、どちらかともなく手を離す。
肝心なことをお互いに言っていない自覚はあったが、そのままタクシーへ乗り込み、終始無言でいた。潤が家まで送ってくれ、そのまま潤もタクシーで帰っていった。彼に抱かれた熱が、まだ残っているような気がした。
美紀は1週間前から出張に出かけていた。新しいプロジェクトのための出張だ。急に決まった日程だったので、周囲に知らせることもほとんどなく出かけることになってしまった。
着いた先でもいくつかやることがあったため、滞在先のホテルでは仕事をしているか寝ているだけだった。
やっと仕事も落ち着き、帰る日が近づいたころ。少し余裕がもてるようになり、メールをチェックしていると、潤からのメッセージに気付く。潤からは忙しそうにしている美紀を気遣うようなメッセージが送られてきていた。
そうして出張を終え、帰ると自宅のマンションの前に人が立っていた。背の高さや端正な身なりから、遠くからでも潤だとわかる。
「潤くん、仕事終わるのが早かったの?」
「先輩、お帰りなさい」
潤はまぶしい笑顔を向けてくれる。
「今日は、出先から直帰してきました。もうそろそろ先輩帰ってくるって聞いたから」
先日タクシーで家に送ってくれたので、美紀のマンションを覚えていたのだろう。潤の家はここから少し離れているから、わざわざ寄ってくれたのかもしれない。
「ありがとう。お土産買ってきたよ。部屋にどうぞ」
「先輩の部屋に?いいんですか?」
「うん、いいよ」
彼氏だってそうそう自宅に呼ぶことはない。でも潤なら部屋にいれてもいいと思った。彼なら自然体の自分を受け入れてくれるという安心感があるのだ。
潤がさりげなく荷物を持ってくれて、部屋に移動をする。荷物を置くと、ローテーブルの前に座ってもらった。お土産のお菓子に合わせて、お茶を用意すると声をかける。
「すみません、押しかけちゃったのに」
「ううん、いいのよ。会いたいなって思っていたから」
潤は申し訳なさそうに頭を下げた。こんなところも可愛いと美紀は思った。そうしてお湯がわくまでの間、潤とちゃんと話そうと、美紀はテーブルの向かい側に腰を掛ける。
「潤くん、ありがとうね」
「え?」
「メッセージ、いろいろ気を遣ってくれたでしょう。今回仕事きつかったから励まされたな」
「そんなことないですよ。俺はまだ新人だし、先輩の方が仕事大変だなと思っていますから」
「潤くんはいろんな仕事を任されているって聞いたよ。本当にすごいね」
「まだまだですよ。学ばないといけないことがたくさんありますから」
美紀はいつまでも謙虚な潤を尊敬している。美紀の経験上、できる男性は俺様すぎることが多い。もちろん自信があるのは、仕事上いいと思う。でもプライベートまで俺様すぎると、一緒にいて疲れてしまうのだ。
前の彼氏がそんな人だった。仕事ができて、いつも仕事優先。美紀には仕事を辞めて、海外に転勤したらついてきてほしいと言われていた。
だが、美紀はそんな先のことを考えられなかった。いつか仕事を辞めるかもしれないが、今ではないと思っていたのだ。そうして彼と未来の話ができなくなると、お互い心の距離が生まれた。
ぼーっと昔のことを考えていると、潤から話を切り出される。
「先輩、なんで俺が日本に戻ってきたかって聞きましたよね」
「うん、キッカケは潤くんの叔父さんだよね。尊敬しているって聞いたから」
「実は叔父さんにも、海外で就職したらと勧められたんです。でも……」
「でも?」
「心残りがないかとも聞かれました」
「え?」
「実は、先輩の顔を思い出したんです。日本のことを思い出すたび、先輩のことを思い出して」
「わたし?」
「はい、大学生のころから先輩は俺の憧れでした。でも年下だったし、先輩に告白する自信がなかったんです。だからもし告白するなら、もっと大人になってからにしたいと思っていました」
「え……」
「驚かれますよね。全然そんなそぶり見せなかったから」
「うん、だから再会してびっくりしたの」
「まさか同じ会社だとは思わなかったんです。入社するのが決まってから、先輩が同じ会社だって知って」
「ほんと、偶然だね」
「はい、だからこのチャンスを逃したくなくて。先輩には恋人がいるかもしれなかったのに、強引に体の関係をもってしまって」
「強引じゃないよ、わたしだって酔っていたし」
美紀は潤と向き合って会話を続けた。潤は真面目過ぎるほどに、美紀をまっすぐみて話をしてくれる。その姿から、彼が美紀をどんなに思ってくれているのか、ひしひしと伝わる。
美紀は潤の視線を感じるだけで、とくんと胸の高まりを感じた。高校生みたいに、ドキドキしてしまう。こんな気持ちは久しぶりだ。
「ゆっくり話をする機会もなかなかなくて。それに先輩と少し会えないだけで、やっぱり寂しいなって思うようになって。すげえ、情けないですけど」
「そんなことないよ」
会えない間、潤がそんな風に思ってくれていたなんて思いもしなかった。美紀は彼が自分の感情を抑えながら、美紀の仕事を応援してくれていたことを知った。
「順番が逆になって、今更って思うかもしれませんが。先輩とちゃんとしたいなって。付き合ってほしいです。もしかしたら彼氏いるのかもしれないですけど」
「彼氏は、なんとなく自然消滅だったんだけど、潤くんとこうなってからちゃんと連絡してお別れしたよ。だから今はフリー」
「先輩……」
「セックスしているときじゃなくても、美紀って呼んでほしいな。これから恋人になるんだったら。先輩じゃ他人行儀でしょう?」
「それって、OKってことですか?」
「うん、よろしくお願いします」
美紀はそっと頭を下げた。それから潤に視線を向けると、潤は少しぼんやりしていた。
「潤くん?」
「いや、嬉しくて」
「わたしも、二人の関係って何だろうって思っていたから。だから潤くんから話が聞けて嬉しい」
「俺もです」
「潤くんは海の向こう側に、彼女とかいないよね?」
「まさか、フリーですよ」
美紀が意地悪して問いかけると、笑って潤が答える。そうこうしているうちに、お湯が沸く音がした。
美紀が立ち上がって、キッチンへ向かおうとすると、潤の手が美紀の手首を掴んだ。
<つづく>
次回は3月16日(土)20時に更新!
明日はドキドキの最終回…!2人の関係は一体どうなる!?
お楽しみに♡
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