著者:kirina
南(みなみ)亜加梨(あかり)は混乱していた。
何故こんなことになっているのか。たった一分前まで、亜加梨は会社の資料室で顧客管理リストに手を伸ばしていたはずだった。
床を背に倒れた亜加梨の上には、呼吸が聞こえるほど近くに後輩の不二野(ふじの)槙人(まきと)がいる。
いわゆる床ドンの状態だが、背中には槙人の手が回っていて、亜加梨は抱きかかえられていた。脚の間には、槙人の脚がある。スーツ同士がお腹で擦れていて、くすぐったい。
それだけならまだしも、つい一秒前に起きたことが亜加梨の脳内を混乱させ、同時に顔を真っ赤に火照らせていた。
――キスした、よね?
唇と唇が、一瞬柔らかく触れた。完全に事故だったとは思う。しかしスローモーションに感じられたキスの瞬間、槙人のゆらりと揺れる視線が、獣じみていた気がした。
二人の間に、しばしの沈黙が流れる。強い瞳に射貫かれたように、ドクドクと自分の心臓がうるさい。
「……っ! ごめんなさい!」
突然、槙人がガバッと顔を上げた。
おろおろと眉を下げる様子は、亜加梨の知っているいつもの”不二野くん”だ。先ほどの表情はやはり気のせいだったのかもしれない。
「先輩、大丈夫ですか? 立てます?」
「う、うん……」
抱き起こされるようにして、亜加梨も身を起こす。槙人は埃のついた手をぱたぱたと叩き、散らばったファイルを拾い始めた。
「先輩、届かないのかと思って。手伝おうとしたんですけど……」
そうだ、棚の一番上の顧客管理リストは、亜加梨が手を伸ばして届くか届かないかギリギリの高さにあった。背伸びをして、「もう少し」と小さくジャンプをした所までは覚えている。
そこで隣から大きな手が伸びてきて、亜加梨の腕は逸れ、横に積んであったファイルが何冊も雪崩れた。驚いてバランスを崩した途端、ヒールのかかとを床に滑らせてしまい、その脚が槙人の脚に絡まったのだ。
そして、バサバサと落ちるファイルと共に二人して転んだ。事故だ。
完全に――キスまでの一瞬、空いた気のする少しの間が、槙人の故意でなければ。
「うん、届かなかったみたい……大丈夫? 不二野くんこそ、怪我してない?」
「僕は平気です」
亜加梨が背中の埃を払っている内に、槙人はテキパキとファイルを棚に戻し終え、亜加梨の目当てだった顧客管理リストを「どうぞ!」と渡してくれた。
この、にぱっと犬歯を見せる無邪気な後輩を、亜加梨はいつも可愛がっている。入社して教育担当になった時から、まるで犬みたいな子だなと思っていた。
ふわふわとカールされた色素の薄い茶髪は、染めたりパーマをあてたりしていない天然もので、本人はコンプレックスらしい。
大きな瞳に髪と同じ色の長い睫毛、そんな愛らしい顔をしているが背はすらりと高く、モデルでも通用しそうな容姿だ。女子社員が「かっこいい」と噂話をするのも頷ける。
しかし亜加梨は、槙人のことを「かっこいい」どころか男として意識したことはなかった。仕事の飲み込みはそんなに早くないが、いつも一生懸命で亜加梨の言うことを素直に聞く、かわいい弟を連れているような気分だった。
可愛がってはいたが、犬みたいと思うほどなので、全く恋愛対象として見たことはなかった――今の今まで。
「あの、不二野くん」
「ん? 何ですか?」
ファイルを差し出したまま、槙人はきょとんと首を傾げてくる。まるで転倒以外は何もなかったような表情に、亜加梨は、キスしたこと自体が、自分の気のせいだったように思えてきた。
「……何でも無い。ファイルありがとね」
ましてや槙人がわざと唇を奪ったなんて、勘違い甚だしい。そう考えれば無性に恥ずかしくなってきて、亜加梨は顧客管理リストを受け取ると、そそくさと資料室を後にした。
つまり亜加梨は知らない。槙人が、一人になった部屋で「やらかした……」と頭をぐしゃぐしゃ掻いていたことを。
南 亜加梨の勤める人材派遣会社は、都会のオフィスビルの五~八階に位置している。郊外にある自宅アパートからは地下鉄で五分、そこから乗り換えて二十分。
通勤ラッシュの満員電車に詰められ、吐き出され、を繰り返す朝の時間帯は、出勤するだけで一苦労だ。
今朝は寝坊で二本も乗り遅れて、出社時刻ギリギリの電車になってしまった。エレベーターの扉が開く時間も惜しんでオフィスに駆け込み、タイムカードを切る。八時二十九分。滑り込みセーフだ。
「おはようございます! 先輩がこんなにギリギリなの珍しいですね」
朝から元気な声をかけられて、亜加梨はため息交じりに振り向いた。右隣のデスクは、寝不足の原因である張本人なのだ。
「おはよ……」
「うわ、すごいクマ。寝てないんですか?」
「はは……不二野くんは朝から元気そうでいいね」
そこまで会話を交わしたところで、課長が入ってきて朝礼の時間になった。窓際にあるホワイトボード前に移動して、社訓を唱和し、今月の成績と今週のノルマ、今日の目標について課長の小言を聞く。この薄毛の上司は悪い人ではないが、いかんせん話が長い。
八時半すぎから始まる朝礼が、九時を過ぎることもざらだ。しかも毎日毎日同じ話を繰り返すばかりで、時間の無駄だと亜加梨は思っている。この無駄話の為にメイクもそこそこに走って来たのかと思うと、どっと疲れが襲ってきた。
「――で、不二野? この案件はどうなっている」
「はい、順調に進んでいます。今、南さんが過去の顧客を洗い直してくださっているので、もう一粘りできそうです」
「南、不二野はどうだ」
「頑張ってます。今回もほとんど独り立ちのような状態なので、次からは私が付かなくても大丈夫かと」
課長は満足そうに頷いているので叱責されるよりマシだが、この受け答えは昨日も一昨日もさせられた。周りの同僚達も苦笑いしている。その後十五分経ち、ようやく解放された頃にはすでに九時を五分も過ぎていた。
「今日は一段と長かったね~、亜加梨、イライラしてんの隠し切れてなかったよ」
「だって、朝礼に三十分って……無駄にも程があるでしょ、こっちは残業時間がかかってるっていうのに」
声をかけてきたのは、亜加梨の同期の川瀬(かわせ)奈々(なな)だ。奈々ののんびりとした口調に、ついムッとして言い返してしまう。
朝礼後の習慣で、二人そろって給湯室に向かい、コーヒーを淹れる。ドリップ式のコーヒーサーバーが完備されているのは、この会社の良い所だ。亜加梨はブラックコーヒー、奈々はカフェラテ。それぞれ食器棚に自前のマグカップを置いている。
「じゃあ奈々、またお昼休みにね」
デスクの離れた奈々と別れ、亜加梨は自分の席に戻った。朝は時間が無かったので、まずは書類の整理と今日の仕事の確認から――と積まれたファイルを開いた所で、ころんと何かが机の上に落ちた。
「ん?」
見ると、チョコレートの小箱だ。付箋が付いている。『昨日はすみませんでした』――記名がないが、字ですぐに差し出し人が分かった。何せ亜加梨は、彼が入社したての頃から、ずっと一緒に仕事をしてきているのだ。
「………不二野くん」
「え? 何ですか?」
右隣に声をかけると、槙人は素知らぬ顔で首を傾げた。あくまでしらばっくれるつもりらしい。
――つまり、あのキスは亜加梨の気のせいじゃなかったのだ。
そして何事もなかった先輩後輩の関係に戻りたいと、そういうことらしい。でも謝罪はしたいので匿名の体(てい)でチョコを寄越したのだろう。
ずるい男、と思いながら、亜加梨にとっても好都合だった。槙人のやり方はスマートだ。一晩思い悩んだ自分が馬鹿らしくなって、そんな諸々を込めた平手をバンッと槙人の背中に食らわせた。
「いたっ! 何するんですかぁ」
「午前中にリスト洗い直すから、今日中に処理しなよ」
「はい!」
元気のいい槙人の返事を合図に、亜加梨はこれっきりキスを忘れることに決めた。
背中に回った大きな手も、あの亜加梨を捕らえて揺らいでいた瞳も、棚へファイルを戻していく高い背も、ただの後輩を急に男として意識してしまったことも、すっかり忘れることに決めたのだった。この時は。
<つづく>
次回は3月26日(火)20時に更新!
本日から7夜連続で公開していくので、ぜひお楽しみに♡
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