「いってらっしゃい、右京(うきょう)さん」
「行ってくるよ、姫奈子(ひなこ)」
25歳の妻・姫奈子はいつものように仕事に出かける夫を玄関まで見送る。
33歳でIT会社を経営している夫・東城院(とうじょういん)右京は穏やかな笑顔を浮かべると、優しく妻の頭を撫で、扉を開けて家を出て行った。
少し経った後、夫が運転する高級外車のエンジン音が鳴り響き、家から遠ざかって行くのを確認すると、姫奈子は浮かべていた笑顔を崩してドッと身体の力を抜く。
「ふう……。今日も元気に出勤していったわね」
緊張が解けたものの、それでも気はまだ抜けない。
高級住宅地に建つ一戸建ての大きな邸が、今の姫奈子の住居だ。
庭も広く、部屋数も多い為に、姫奈子一人では管理しきれない。
「奥様、旦那様は行かれましたか?」
「えっ、ええ……」
突然声をかけられて、姫奈子はびっくりしながらも振り返る。
廊下にはいつの間にか、空の洗濯籠を持った中年の女性が立っていた。動きやすい服装の上にエプロンをかけたこの女性は和子(かずこ)という名前で、年齢は53歳。姫奈子が嫁入りする前からこの家の家事使用人の一人として働いている。
「ではベランダで紅茶でもいかがです? 旦那様が仕事に行かれると、気が緩むでしょう?」
「そうね。それじゃあお願いします」
「はいよ」
彼女はとても人懐っこくて明るい性格で、姫奈子にとってはありがたい存在だ。
色とりどりの花々が植えられた中庭は、まるでドラマのセットのように美しい。ベランダには白いイスとテーブルのセットが置かれており、天気の良い日はここで一人、ゆっくりとティータイムを過ごすのが姫奈子のお気に入りだった。
「お茶請けはクッキーを焼きましたので、どうぞ。何かあれば、すぐにお声をかけてくださいね」
「ええ、ありがとう」
ティーセットをテーブルに置くと、和子はニコッと笑ってベランダから出て行く。
白い陶磁に、ピンクの花が描かれたティーカップに注がれた紅茶の良い香りが姫奈子の鼻をくすぐる。姫奈子は角砂糖を一粒だけ紅茶に入れて、銀のスプーンで回して溶かし、一口をゆっくりと飲む。
「はあ……。落ち着くなぁ」
一人の時間があるのは、和子なりの気遣いだ。
一般市民として25年間生きてきた姫奈子にとって、三ヵ月前の運命の出会いは未だに衝撃的で、この生活はまるで夢を見ているようだった。
しかしその気持ちは、幸せ過ぎるからという甘い感情だけで生まれているものではない。
どちらかと言えば、謎だから――と言った方が正しい。
カップをテーブルに置くと、姫奈子は困惑した表情を浮かべる。
「やっぱり……変、よね? 何故右京さんはわたしを妻に選んだのかしら?」
事の起こりは三ヵ月前にさかのぼる。
三ヵ月前、姫奈子は会社の上司から、突然会議室に呼び出された。
地元の中小企業で事務員として働いていた姫奈子は、その時はリストラ宣告を受けるのかとドキドキしたものだが、その話の内容は予想の斜め上をいくものだった。
「西宮(にしみや)くん、まず最初に言っておくが、コレは真面目な話になる。だから後にパワハラだのセクハラだの言わないでほしい」
もうすぐ定年を迎える予定の六十代の男性上司が至って真面目な顔付きでそう言うものだから、リストラ宣告だと思い込んでいた姫奈子は首を傾げながらも答える。
「はい、わかりました」
「ありがとう、助かる。実は私の妻がとあるIT会社を経営している男性の家で、家政婦として働いていてね。今年33歳になり、そろそろ結婚を考えているらしい。そこで良いお嬢さんがいないかと妻から聞かれてね。それで西宮くん、もし付き合っている男性がいないのならば、一度顔を合わせてみないか?」
「……えっ? わたし、リストラされるんじゃないんですか?」
「誰もそんなことは言っていない。……ああ、誤解するような言動を取ってしまったのなら謝ろう。しかしこの話はぜひとも前向きに考えてほしい。決して悪い話ではないし、キミが彼の妻として良いと思ったからなんだ」
「でも聞けば家政婦さんを雇えるほどお金に余裕がある人なんですよね? なら別にわたしのような一般市民の平社員じゃなくとも……」
「そう思うのも無理はない。……実は本当のことを話すと、今まで他にも女性を推薦したことはあるんだ」
眉間にシワの跡が刻みつきそうなほど険しい表情を浮かべる上司の話によると、最初の頃はもちろん家柄も育ちも容姿も良い女性を紹介していった。
ところが彼の方が気に入らずに断り続け、それでも嫁候補は求め続けているらしい。
彼は特に家柄も育ちも容姿も気にしない――とは言うものの、断るには何かしらの理由があるようだ。ところがその理由をいくら聞いても、誤魔化してちゃんと答えてはくれない。
「なので変化球を投げることにした。容姿はともかくとして、家柄も育ちも一般市民のキミならば、案外イケるのではないかと思ってね」
「容姿が一番重要な気がしますけど……。でも顔合わせってどんなふうにするんですか? お見合い形式ですか?」
「いや、それが毎回同じでね。私の他にも彼の結婚相手を探している人がいて、候補者ももちろん複数いる。なので彼の家に招かれて、二時間ほどお見合いホームパーティが行われるんだ。その間に彼と候補者の女性達は話をしたりするんだが……、彼のお眼鏡にかなうコが今までいなくてなぁ。他の紹介者の人も良いお嬢さんを紹介しているんだが、どうもなぁ……」
歯切れが悪くなるところを見ると、今まで様々なタイプの素晴らしい女性達を紹介しても、彼は誰一人として気に入らなかったのだろう。
そこで、平凡な生まれと育ちの姫奈子に、白羽の矢が立つことになったようだ。
「でもわたしなんて地味で平凡な容姿ですし、IT会社の経営者と話が合うなんて思えません」
「それは分からないじゃないか。それに重く考えずとも、セレブのホームパーティに行くだけと考えても良い。案外、そっちの方が楽しめるだろうし」
ワタワタと慌てる上司を見て、何となく姫奈子は察した。
恐らく、本当は今回の顔合わせに連れて行く女性の都合がつかなくなったのだろう。そこで急遽、彼氏がいなさそうな姫奈子に声をかけた。
とりあえず、数合わせというところだろう。
(まあ彼氏がいないのは当たりだし、暇だったから良いけど)
それにほんの少しだけ、興味がある。どんなお嬢様にも興味を持たない男性の顔を、一目見てみたいと思ったのだ。
「良いですよ、参加します。そのホームパーティはいつですか?」
そう言った途端、姫奈子が見たこともないような輝かしい笑顔を上司は浮かべた。
「本当か! ありがとう! 助かる!」
<つづく>
次回は4月10日(水)20時に更新!
上司に頼まれたホームパーティに行くことを決めた姫奈子。そこで一体何が起きるのか…!
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