もし智也と出逢っていなければ、成美は今、こんな惨めな一人暮らしをすることもなく、親元から通勤できる会社を選んでそこそこのOLライフを満喫できていたのかもしれない。あるいは、彼とまだ続いていたかも……
成美は自分が地味で内気なのを知っていたので、高校時代には自分に彼氏ができることすら想像していなかった。処女のままで死ぬのかもしれないと、密かに不安になることもあったほどだ。
だが短大に入り、それは杞憂となった。入学してすぐに彼氏ができたのだ。同じキャンパス内の法学部の三年生で、名前は大介。サークルを通じて知り合って、彼の方から一目惚れされて、すぐに交際が始まった。
成美は自分に彼氏ができたことは夢なのではないかと思いながら、彼に処女を捧げた。ロストヴァージンの痛みが激しすぎて、これは本当の出来事なんだとやっと実感できた。成美に「清楚で可憐」と囁いてくれたのは彼だ。
「私みたいな目立たない子、本当にどこが良かったの?」
こんな質問、あざといかな。自分でもそう思いながら聞いてみた。実直という言葉をそのまま男にしたような大介は、一瞬きょとんとした後、真顔でこう言った。
「成美は目立たない子なのか? 他の男は知らねえけど、俺は何て言うのか、成美を見た瞬間からピーンと来たんだよな。あ、この子は俺のもんだ、みたいな直感が。だから目立つとかそういうのとは、また別次元なんだよね」
成美は、何の含みも飾り気もない言葉に、益々彼に夢中になった。
二人が所属していたのは文芸愛好会というサークルだった。名前だけはやたらと立派だが、中身はただの飲み会サークルだ。成美は小学校の頃から、授業中にノートの隅っこに小説とも言えない短いお話を書くのが好きだった。
文芸愛好会に入ったのは、ここでなら、多少引っ込み思案な自分でも、それなりに気の合う仲間を見つけられるかもしれないと期待したからだ。
大介と出逢ったことで、高校までくすんだ色だった周囲の風景が、春の陽射しのように輝き始めた。彼氏ができたし、処女も捨てられた。大介に出会わせてくれた全てへの感謝で胸がいっぱいだった。
サークル活動は火曜と木曜の週二回。たまり場にしている教室でいい加減な文芸論争を吐いたり、自分たちで書いた小説を見せ合ったりと、それなりにサークル名らしいことをしながら、居酒屋が開く時間まで暇をつぶす。
移動して乾杯。文芸愛好会のコンパで、成美は酒の楽しみを覚え、恋人と二人きりになれるまでのじれったい時間を覚えた。二人は、二時間の安いコースが終了すると、そのまま大介の家に消えた。
終電が終わるまで彼に抱かれ、時間になると「帰したくないよ、成美」と耳に囁かれる。時々自宅の両親に友達の家に泊まると嘘をついて、大介の腕の中で朝を迎えることもあった。どちらとも成美にとっては幸せな時間だった。
ただ、何度抱かれても、セックスが気持ちいいものなのかどうかは、よくわからなかった。
「ねえ…気持ちいい? 成美、気持ちいい?」
自分の上で腰を振る大介に何度もそう聞かれ、その度に何て答えればいいのか困った。そもそもセックスが気持ちいいというのが、どういうことなのかわからなかった。
彼に胸を揉まれていると身体中が変な感じになって、これが気持ちいいってことなのかな、とぼんやり考えたりもした。
だが挿入で身体を開かれると、早く終わらないかなと、それしか思えなくなる。成美にとってセックスは、大介を満たすためのものでしかなかった。
だから「気持ちいい?」と聞かれても、あいまいな喘ぎで誤魔化すことしかできなかった。
大介が自分の身体を愛してくれている。成美にとって、重要なのはそこだけだった。
「大介の彼女って、君?」
そう声をかけられたのは、短大一年目最後の飲み会だった。突然のことに、成美はサワーを吹きそうになった。
隣にはいつの間にか、知らない男が座っていた。少し軽薄そうだがとても整った容姿をしている。レディスコミックに登場する、ヒロインを手玉に取る若社長はきっとこんな感じなんだろうな、と、レディコミを読んだことが無いなりに成美はぼんやりと考えた。男はにっこりと笑った。
「俺、ここのOBで智也。初めましてだよね」
「え、は、はい、成美って言います」
質実剛健な大介とは、全く違うタイプの男だった。大介の笑顔が直射日光なら、智也のそれは暗い部屋を柔らかく照らすソフトライトだ。
「成美ちゃんって言うのかー、よろしくねー。現役の頃は、大介可愛がってやったんだぜ」
「あ、ありがとうございます」
ぎこちなく言うと、アハハと笑われた。
「夫婦は似るとか言うけど、付き合ってるだけでもそうなるのかな? 成美ちゃん、超真面目―。でも大介の言う通り。うん、すっげー清楚って感じ」
智也のあけっぴろげな態度に、成美は目を泳がせた。こんな日に限ってどうして大介はバイトなんだろうと、少し恨めしくなった。
彼はそのまま成美の隣に居座り続けた。コンパの喧騒の中で、大介の先輩だという男と二人きりの空気を作っているのに気が引けた。隙を狙って別のテーブルに移動したいと思ったが、彼が今、出版社で編集部にいると聞かされると、気持ちが一転した。
「智也先輩、編集のお仕事なさってるんですか?」
「一応ね。って言ったって吹けば飛ぶような小さな出版社だし、低俗な雑誌しか作ってないし、大したアレじゃないんだよ」
フフッといたずらっぽく笑う智也に、胸が躍った。自ずと瞳が輝き出したのだろう、彼は成美を見ると、にこりとした。
「成美ちゃん、今俺に、自分の原稿読んで欲しいなぁ、って思ったでしょ」
ドキリとした。図星だった。小説家になりたいとか、そんな大それたことは思っていない。だが、小さい頃から文章を書くのが好きだった身としては、プロの編集者に自分の文章を批評してもらえるチャンスがあるなら読んでもらいたいと思うのは当然だ。
智也は挑むような目つきで顔を近づけると、手を出した。
「今ある? 原稿」
成美は慌ててバッグの中をまさぐった、小説を書く時はいつも大学ノートを使っている。彼女はその中で一番最近書いた作品の一ページ目を開くと、「お願いします」と言って差し出した。
智也がノートをめくるたびに、気が動転しそうだった。小説を読む彼には、軽薄な印象は全くなく、別人のように真剣だった。
彼は読み終わるとパタンと閉じて、ノートを返してきた。反応を待って、智也を見る。彼は少し憐みの混じった眼差しで、言った。
「大介と、上手く行ってないでしょ」
心臓を、針で突かれた気がした。
智也は立ち上がると、促した。
「成美ちゃん、二人で話さない?」
<つづく>
次回は4月3日(水)20時に更新!
智也に誘われた成美は、一体どうなる…!?
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